連載 ムツゴロウの「食べて幸せ」

 

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第八回 ついに巡り合う、味の饗宴 後篇

 生ぐさく、でも死んだ魚のものではなく、陽で温められた生き物の吐息。
少年の冬、教室の日だまりで集まっている女生徒の中に何げなく入ってい
き、いきなり、体臭の雲に取り巻かれて言葉を失った記憶が甦ってきた。そ
の匂いには脳を切り裂く烈しさはないけれども、体と心を空中に持ち上げる
天使の誘惑が含まれている。
 そして、匂いは、秒単位で濃くなった。その奥に、性の、フェロモンの誘
いがひそみ、不思議にも、私の中に入ってきて、入るだけで出て行かなかっ
た。私は、匂いを吹き込まれすぎた風船みたいに、ぱんぱんにふくれ上が
る。
 料理としてはスクランブルドエッグである。その中に、ベーコンを入れ
たり、キノコを入れたりすることは多いが、なんと、目の前のものは、トリ
ュフの方が多く、炒られた卵片がトリュフにしがみついていた。
 一さじ。口の中。
 それは、ドカーンではなかった。夜空を焦がす巨大な花火ではなかった。
 闇夜。線香花火。それを、百も二百も、一度に口の中に入れた感じ。味が
はじけ、消えかけた火が、消える直前のはかない陰影を伝える。それに加え
て、新しい火の玉がパチパチパチ。
 私は、こう記している。
“俗で、官能的で、淫靡で、挑発的で、粘膜から染みこんで、直接、脳へ
とめらめらやってくる。”
 体が左右にゆれた。私は匂いと味に酔っていた。
 火が魔法を使ったのだ。トリュフにひそんでいるものは、温度によって解
き放たれる。
 そして卵。卵は不思議な食材である。三大珍味の一つ、キャビアには、
砕いたゆで卵がそえてある。スキヤキにだって、卵はつきものである。
 イタリア人たちは、これは都会では食べないと言った。
 そうだと思う。野趣あふれる、こういう食べ方はしないだろう。高価であ
るだけに、もっと違った演出をするだろう。
 途中から加わったジョバンニが、人生いろいろあるけどね、二十年連れ添
ったカミさんに先立たれたりね、哀しいことが多いけれども、これを食べた
時、これ以上ないという美味しいものを食べた時、ああ、生きててよかった
と思うもんな、とため息をついた。彼はフライパンの残りをわけてもらった
料理を、両掌でくるむようにしていた。太い指がふるえていた。
 シェフのミケーレは、これを作ると、また一年、人生が年輪を増したと感
じるのだと言った。
 私は、イタリア人たちに、深ぶかと頭を下げた。何という奥の深さだろ
う。そして、その奥の深さを感じ得る、人という存在は、何とまあ不思議な
ものよ!
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ムツゴロウの「食べて幸せ」は月刊「健康医学」(健康医学社発行)に連載しています。

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