第四回 広く、豊かな、違う天体 後篇
古希を迎えた今、あの夜があってよかったなと、しみじみ神に感謝してい
る。もしあそこで、自分に素直になれていなかったとしたら、食の天体にも
ぐりこめなかっただろう。
レストランめぐりをしている内に、そんな私であっても、これはおいしい
と、テーブルを叩きたくなるような料理にぶつかった。そんな一つに、銀座
の『シェ・イノ』がある。
イノは、井上というシェフの苗字に由来し、共通の友人がいたことも手伝
い、私は井上さん、つまりイノさんと話しこむようになった。
ある日、私はイノさんに言った。
「トリュフがよく分からないんだけど。あのですね、シメジとかマイタケな
どには、それだけをコンブと煮しめた料理がありますよね。トリュフだけを
調理したものはありませんか。もしあったら腹いっぱい食べてみたい」
するとイノさんは、苦笑いして、静かに首を横に振った。
「トリュフは、そのような食材ではありません。無理ですね」
イノさんはしかし、トリュフで悩んでいる私を哀れに思し召したのか、次
に訪れた際、特別料理をこしらえてくれた。テリーヌの上に、黒トリュフの
切片が隙間なく並べられていた。そしてイノさんは、わざわざ厨房から出て
きて、サービスしときましたからと、にやりと笑った。
かおりが、立ち昇ってくる。深い山、巨岩を割って流れる渓流のほとりに
座っている時、顔をくるんでくる匂い。でも、その奥に、いくらか猥雑で、
毒々しい刺激臭が混っている。厚ぼったい花弁を持つ、赤い花のもの。
トリュフだけをすくい取り、舌の上にのせた。複雑な味。これだと強烈に
主張はしないが、いろんな味の要素が小さな槍になってチクチク刺激して
きた。いいものだなと、目を閉じる。強いてたとえるなら、コハダの新子。
まだ親になり切れていない魚の淡い味が、おうい、ここだよと呼びかけてく
る。どこだよと探しに行くと、すっと消えてしまう。
東京で食べるトリュフは、それが限界だった。イノさんのものより上のも
のにぶつからなかった。
私は、ここから先へ行くには、生産地を訪ねる他はないと思い、イタリア
へ行き、自分の手で掘ってみようと心を固めていた。
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