連載 ムツゴロウの「食べて幸せ」

 

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第四回 広く、豊かな、違う天体 前篇

 若い頃、生きのびるのがやっとの生活をしていたので、私は、磨き上げた
すてきな料理に触れるチャンスがなかった。トリュフやフォワグラなどは、
知識としては知っていたけれど、しかるべき所で、正面切って食べたことは
なかった。渋谷の恋文横丁で、ソース焼きそばやタンメンを食べ、それらを
結構おいしいと感じ、御馳走だと思って生きていた。
 独立し、書いた本の何冊かがベストセラーになり、収入が安定した頃、私
は、自分がいた世界とは別に、違う天体があるのに気がついた。流行作家並
の執筆量だったから、東京へ出てホテルにこもり、しめ切りに必死で追いつ
こうとした。そして夜は、ホテルに備えつけてあるレストランガイドで調
べ、有名なレストランを歴訪した。歌の文句じゃないけれど、銀座、赤坂、
六本木―などに夜な夜な出没したのだった。
 でも高名な店に行ったとしても、心の底から満足したわけではなかっ
た。何だいこれはという疑問が残るし、ぴったりこないじゃないかという違
和感が胸に沈んだ。人間というのは厄介な代物であり、そのような状態であ
っても、自分は正しいのだ、自分の舌は、おいしいか、おいしくないかを見
究める力を持っていると信じている。
 そんな私に、天からショックが降ってきた。あるフランス料理店に行き、
四百年続いているレシピで作るカモを食べた。なァんだ、こんなものかと思
った。はっきり言って、おいしくないのである。食べて外に出た。季節は
冬。北風がコートの襟もとから忍びこんできた。立ちどまる。煙草に火をつ
ける。心に穴が開いている感じがしていて、これは何だと戸惑っていた。忘
れものをした気分である。
 その時だ。何かが頭の中でひらめき、体の中を電気が走った。経験が足り
ないこと、修行が足りないことを、衝撃的に知らされたのだった。フレンチ
と言い、イタリアンと言うが、それは彼らが何百年もかけ、継承し、磨いて
きたものだ。それは文化であり、ひとつの天体を構築している。
 そうか、と思う。おまえは食の田舎ものであり、ここへは入ってくるな
と、料理そのものに爪弾きされたのではあるまいか。
 私は、ショックを受けとめた。一念発起して、そのカモを食べに通い始め
たのである。同じ席で、同じメニュー。ひたすら食べていると、少しずつ何
かが変わり、十回めぐらいだったろうか、ドカンと味が爆発した。口に含ん
だすべての味の要素が、勢いよく体にしみこんできた。感動し、涙が出そう
になった。ここで泣いてはいけないぞと、自分を叱る。料理を食べて泣くな
んて、おまえは何と単純な奴なんだ。しっかりしろ!
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ムツゴロウの「食べて幸せ」は月刊「健康医学」(健康医学社発行)に連載しています。

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