第十二回 クジラ、そしてサケの王 前篇
すでに30年以上前のことだ。私が住んでいた島のすぐ近くに、北海道で
ただひとつの捕鯨基地があり、獲れたばかりのクジラが小船で曳航されてき
ていた。さばく現場を見学させてもらったが、内部はまだ熱く、厚い皮を切
り開くと湯気が立ち昇った。
尾の身とは、後端にある扇型をした尾びれを動かす筋肉であり、料亭『気
晴し』の女将によれば、「二本あるのだけど、食べられるのは、大型のク
ジラで、片方、人間の大人ぐらいの大きさしかない」とのことだった。
赤身に脂の筋が走っていた。口に含むとしっとりしていて、近海本マグロ
のトロの食感だった。しかも相手は哺乳動物だから、口中で溶けたところ
で、肉だぞと叫んでいる。
食通はこれを、冷蔵庫で三日間ばかり寝かせて血抜きをした。刺身よろ
し。超一級品の握り寿司。厚めに切ってステーキにすると、天上の味。脂が
気にならず、食べるほどに美味しくなった。そして、肉が消えてしまった後
も陶然としていて、もっと欲しくなり、皿に残った肉汁を舐めたくなった。
女将は、マッコウよりナガスねと、さらりと言った。確かに、クジラの種
によって肉質が違っていた。歯クジラの仲間より、ひげクジラの方が、肉質
がなめらかで、きめ細かだった。しかしこれは、貴重な食材が定期的に入手
できてこその意見であり、贅沢の上に贅沢のはしごをかけるようなものだっ
た。
毎年私は、その筋に話を通し、尾の身を入手し、いろいろ試してみた。カ
ツを揚げ、カルパッチョをこしらえ感涙にむせんだ。しかし、最高のものが
手に入らなくなった今、その美味しさを吹聴しても、何も始まらないような
気がしている。ラッキーチャンスを声高に誇る老人の自慢じゃないかと、ち
ょっと気がひけてくる。でも日本人は、戦後、クジラ肉で食いつないできた
し、食材の博物学的な側面もあるので、尾の身の凛とした美味しさだけは書
きとめておきたい。
さて、『気晴らし』の最後の料理―イタリアのゼグンドに当たる、二皿め
のメインディッシュとして、巨大なサーモンステーキが運ばれてきた。それ
は、横長の大皿にずしんと乗せられていて、見ただけで、参ったよ、これは
入らないと呟いてしまいたくなる代物だった。
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